昨日のオーストラリア戦で終了間際に逆転負けして萎えながらも、そのままDNPで残留して現代と社会システムの宿題でハイエクの「自生的秩序」について調べてたら萌えた。

DNP2階のDTPマシンのそばの本棚の一番下の段に、ハイエク全集が全巻あるのでそのうち読む。

ハイエクは、社会システムや社会制度を我々個人が簡単に作り直せるという考えを「とんでもない思い上がりだ」と言っている。しかし、社会の状況は常に変わるから、ルールを更新し続けなければならないとも言っている。

個人のふるまいのルールが、複雑に積み上がって社会のふるまいのルールとして現れてくるという彼の考えは、結構ここ1年ぐらい考えている事に近い。

また、これはHCIの研究者が「SocialComputing」という言葉を使って「社会的なもの」と指し示す対象と、社会学者が研究対象として「社会的なもの」と指し示す対象の規模のズレにも関係している気がする。(ようするにどこまでが作れるモノなのか、という)

読んだのはこの本の、60ページあたりまで。

ハイエク—自由のラディカリズムと現代
エイモン バトラー 鹿島 信吾 清水 元
筑摩書房 (1991/04)

現代と社会システム 第09回宿題(6/13提出)

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①【復習】ハイエクは社会の秩序形成の本質をどう捉えているか?「ルール」「自由」「法」という概念を用いて説明する

私達は、社会制度は私達自身が作ったものだから、自分たちでより良く作り直す事ができると考えている。しかし、ハイエクはそれを否定する。なぜなら、社会制度は発明されたものでも計画されたものでもなく、私達が生きている中の合理的でないプロセスの中で進化してきたものだからだ。

個人の行動の規則性と、そこから産み出される社会全体の規則性には、明らかに大きな規模の差がある。



社会が秩序を持つには、個々人の行動それ自体にある程度の規則性がなくてはならない。もしそれぞれがデタラメなふるまいをしていたら、秩序は生まれない。この規則性を「ルール」と呼ぶ。

ルールは、過去の人々の振るまいが知識として集積している。しかし、「道具がどう工夫されてその形になったか」という過程を私達が気にせずに使っているのと同じ様に、ルールも「どうしてそのルールができたか」という過程を私達は気にしていない。ルールは、知識をより簡単な形で後生に伝えるメディアになっている。

ルールには3種類ある。株式市場システムなど「頭で考えた末に選択されたルール」と、正義という感覚やフェアプレイなど「言葉で表現できないようなルール」と、慣習法など「言葉で表現できないような事をあえて明文化したルール」がある。

ハイエクは、他者の恣意による強制を受けない状態を「個人的自由」と定義した。個人的自由は守られなくてはならない。なぜなら、我々個人のふるまいが、どう社会レベルのふるまいにつながっていくかを我々自身は予見する事ができないから。社会がある程度の規模と複雑性を持つなら、中央が個人に命令をする事で進めていく社会では、進歩が遅くなり、発見が少なくなり、成り立たなくなる。

法は2種類ある。国家が決める法と、社会の構成員が受け入れているという事実が先にある法がある。今日の自由な社会における裁判官の役割は、社会の中でボトムアップに合意されて生まれてきた「正義のルール」を発見し、明文化する事だ。

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いきなりだけど、実は数ヶ月前から、貨幣システムというものは「コンピュータで計算可能」かつ「人間に理解可能」なものであれば、運用可能なのではないか?と思っている。

貨幣商品説も貨幣法制説も、どちらちょっと調べたけど、どうも違う。本質は「計算可能」「理解可能」の部分で、しかもそれは今のアーキテクチャをちょっと見てみると、「計算」と「理解」の溝はメディアによって埋める事が可能な様に見える。

このハイエクの自生的秩序の議論は、貨幣などの概念メディアがシステムとして実装される可能性を考えるのに関係していそう。

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