おとといの土曜日、うちの大学の授業(補講)に社会学者の宮台真司氏が来た。

宮台真司氏対談「方法としての社会学」~実践、道具、共通言語として~

議論が面白かったから、30分目ぐらいからできるだけメモを取った。

聴きながら書いて編集してないので、名前とか、口調とかが違ったりしているかもしれないけど、とりあえず公開してみる。

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060603(土) 現代と社会システム

■方法の開発と普及

宮台>

システム理論を使うのに準備したリソースに実りがあって、システム理論自体には実りはない。システム理論を習得するのにはどういう意味があるか?

システム理論を理解しても賢くなれない。

西田>

理論自身の有用性もあるが、どこに使うか。

伊庭>

オートポイエティックターン以降のをみんなは学んでいる。ルーマンのオートポイエティックターン以降は整理をしている。その前はファインディング。

ルーマンが見たモノは、前のをみないとわからないかもしれない。

私は方法に注目している。ルーマンだからできたのが前で、他の人でもできるようになる可能性はターン後の方。

アイディアを出す時のコツとかがあって、グルワとかやってもみんなができなくて悔しかった。クリエイティブシンキングの方法があるはず。そういう意味で、ルーマンがどうやって思考の飛躍をしたのかが後期の方にヒントがありそう。

>西田

いまのはツールを普及させるという話。そうやると全体を上げれる。

伊庭>

社会シミュレーションのツールを作ったのが凄い。ルーマンは。

コンピュータの中に社会を作って実験する。

予測ツールじゃなくて、頭のなかの思考実験を試してみる。それをコスト無くできるのがチャレンジング。

安富歩の貨幣の実験

物々交換で貨幣が生まれるのか?自分も欲しいしみんなが欲しいというものが、貨幣みたいに使われる。

ちょっと入り組んだ循環構造とかがためせる。現実とどう関係しているかはわかんないけど、思考のツールとして使える。複雑系のはなしとかは自分の頭の中では考えきれない。

→ www.platbox.org

思考を支援するというのと同時に、人に見せれるからコミュニケーションの道具になる。できる人ができちゃう事が、なんでその人にできるのか?意識せずにやっている事を普及させる。だから、ルーマン後期の方に興味ある。

宮台は最近は方法とかは考えてるみたいだけど、北田とか東とかに君らに任せたよみたいな発言がある。どういう方向に行きたいのか?

新しい自分の狙ってる方向は?



>宮田

ロールプレイ。対立を先鋭にするようなプレイ。

マックスウェーバーが宗教社会学で、日常を幸せに見るだけで幸せになれる人を「超越系」、幸せに生きると「内在系」と呼んでる。

超越系なのに宗教に行かなかった人が、学問に行っている。それが知識人という定義。

ヨーロッパのは学問的な世界。アメリカは科学的。どう違うか?カールマイハイムが参考になる。知的な存在はフローティングじゃないと駄目。帰属してはならない。利害当事者になってはならない。と言っている。それが全体性という概念。

批判理論

全体性を理解できる人が重要な事に関わることができるのがヨーロッパ。アメリカは、手順かして、わかる奴にしかわからないようなルールを無くした。

BBC

クローズドな中で高い所を目指すのが、ドイツから取り入れた日本の学問の方法。それがアメリカになってきた。

数学的な理解をできるひとには全員には参加できる数理科学とかも必要だけど、

今頂点が下がっている。みんなが理解出来るのも必要だけど、数百人しかわからない世界も絶対にある。そういう所も維持しないとならない。そういう中にもう一度ルーマンを組み込みたい。80年以降の作業は、万人に知的なプラットフォームを共有しようとしてるけど機能してない。発見的なツールになってない。社会学的な実りのあるファインディングスはあんまりない。

万人の底を上げるというのと、頂点を上げるというのを同時に実行しなければならない。ルーマンの理論は、頂点をあげるというヨーロッパ的な世界で評価されてきた。だからアメリカでは評価が低い。

>西田

方法論的な有効さで、頂点を上げることができるのか?高い水準に全体を引き上げて、そこからもう一度あげるのが有効な気がする。

伊庭>

2:8の法則じゃないんだけど、大学でもどっちを伸ばすカリキュラムを作るんだという話になる。中間レベルをどれぐらい上げれるかというのが問題になる。味方を作れないと社会変革できない。映像とか伝えるという事に興味ある。一部の人が考えたことが理解されないと回らない。

全体的にレベルがさがっているというも同感。

複雑系が、科学なのか、科学じゃないのか?というのがある。科学は学問の一部なので、科学じゃなくてもいいんじゃないかと思ってる。

構成要素があるシステムを構成している。全体性を反映するシステム。

それについて考える個人は、シミュレーションが使える。全体性をどういう風に思考しうるか?というのでツールを作ってる

宮台>

底辺をあげるのも、中間をあげるのも、頂点も、全部必要。それぞれ別のリソースが必要。

日本は特殊な社会。帝大生は尊敬されていて、一般人には理解出来ないけど多分正しいんだろうねというのがあった。でもヨーロッパ的じゃなくて、村的。共同体的な錦を飾るようなシステム。空洞化すればするほど、知識人が機能しなくなる。

格差社会議論も、ありえない。格差がいけないなんてのはあり得ない。何が問題なのか?ヨーロッパでは底辺が底辺のまま幸せになれる社会。アメリカはそれに対して、がんばれば底辺も上がれる社会になっている。そういう方法で格差が正当化されている。

格差を平準化してしまうと、クレームをつける我々が、政治との境界がぼやけて解体してしまう。なぜ格差が容認出来るかというと、それがスタイルの違いと結びついている。クオリティレベルで違う。貴族の幸せと家族の幸せは比較不能。

スタイルの違いを認めなかったのが吉田松陰。みんな平面に並ぶと、自尊心だけのシビアな問題になってしまう。知的なクローズドな環境を、帝大生のモデルで取り戻すなら、共同体的なアプローチが必要かも知れない。格差があってもかまわないよねとならないといけない。

知識人がエキスパートと同義になってる。全体性とほど遠くなっている。まずい。底辺を上げるプログラムが成功しても、頂点は低いまま。頂点を上げるプログラムを成功しても、底辺が低いままだからリスペクトが起こらない。

西田>

SFC的な教育方法にもかかわってくる。

伊庭>

私はSFCの4期生。一つの学問分野じゃなくて、いろんなのを相互的にやって分野を超える。そうやった時に、以前から話にあったように、SFCには「~~学」というのを作らないと言った。一つの学問を誇示すると抜け出せなくなる。どこまでできてるかというと、色んな人のレベルがあるけど。単に超領域的かというと偉いかというのはなくて、成果を出すのが重要。

作るという事に注目している。何かしっているだけで満足している人も多いと思うが、実践したり作ったりするのがベースになって、その経験から次の知識獲得に行けないかと考えている。来年のカリキュラムでは、創造実践というのがある。とにかく1年のうちから何か作ってアウトプットするというのをやる。高校までで詰め込み型になってただろうけど、それを変える。

今まではシェア出来る知識というのをやったのが大学だったけど、方法という面で分野を超えてシェアするのが重要じゃないか?コラボレーションの方法とか。

伊庭>

真ん中辺を上げるというのは大賛成。middlemanという概念がある。ポール・アザースの概念に。万人には理解出来ないけど、かみ砕いて有用性をやるのがmiddlemanがやれる作業。

映画の仕事をやってる中で、それを感じる。映画の世界にはパラドックスがある。メッセージを深いモノにすると、わかる人が少なくなる。無くなるとリアリティが上がっていく。

ポピュラリティを保って観客・出資者への責任を果たしつつ、インパクトを与えて次の生き方の持っていってもらうようなのが課題。日本映画が賞を取れないのが、メッセージ性の深さが無いとか言われてる。韓国映画と逆に言われている。

プレゼンテーションのうまさは、バカはだませるけど頭のいい人は騙せない。

映画も全く同じ。日本の映画もそう。

説得出来るかというと、知的なプレゼンテーションに必要だった。でも今はそれを越えていく。知的な頂点にいる人間を、どれだけ説得できるかが課題になっていく。

SFC的なものは、新しい市民性をどう構築するかというのになっていると思う。政治エリート、財界エリートを説得する。

知的な頂点という言い方を否定しなければならない。全体性を見通す存在だったが、それはできるのか?難しくなってきている。

なぜか?教育基本法の問題とか共謀罪?とかいろいろやっているんだけど、

民主党案では国際法のスペックを満たせない。と麻生が言った。多分外務官僚がウソを教えた。そんな事は全然無い。政治化はまるのみしている。

官僚の権益とかがある。

国家権力=悪という図式は間違っている。国家が利権のつばぜり合いをやっている。それがいけない。アクセンチュアとかにすごい情報を握らせているけど、それでも全体を知っている訳じゃない。以前の日本のプラットフォームとは違うモノが支配している。流動性が高くなってるけど、全体を見渡せる人がいない。どうすればよいか?

三つどもえの踏み込みあいが必要。市民が統治権力を監視する存在。そのツールが憲法。ガバナンスに興味を持つのが政治家。どういうボタンを押せば国民が動くのか考えてる。3つ目が経済エリート。

戦後教育を素朴に受けているので、国家に要求する事でいい社会が実現すると思っているが、それはあり得ない。議論してでた合意したものは、いいことか?環境問題について議論しても、前提がすでにある。

民法には出資してるのが電力会社とかだから、色んな放送出来ない内容がある。

ヨーロッパではコモンセンスになってるのがみんなに行き渡っていない。要求する事でいい社会になるわけがない。例えば広告代理店に入って、悪い奴になって出世してから良いことをしようとしてもいい。まあ途中ミイラ取りがミイラになるんだけど。

日本では要求してもいい社会にならない。

西田>

新しい社会からSFCの話にしたいんだが、学才境域とか超領域的アプローチというのは、問題設定がそういうのを持ちうる前と代わっていないんじゃないか?と思っている。環境問題を解決するのに、アプローチ方法は色々技術とか政治とか持ち込むけど、なんで環境問題に対象を設定してるのか?そこが前と代わってない。

宮台>

与えられた議題をみんなで議論していって…というのでは、公共的なのはできない。アジェンダセッティングの段階で、人間関係の権力が働いている。

また、最近色んな社会運動に変化がしている。ゲイムーブメントとかが出てきて、フェミニズムが消えて言っている。なぜか?西田が言っていることがそれ。

日本で働いている人は、何かにコミットすると他にできない。順序を考えてやらない人間は、エゴイスティックやなんかと思われる。だから社会的に支持されない。

ゲイパレードは政治的なパレードだったが、一回ブランクがあってから、祭に人を呼ぼうという風になった。もしポリティカルにやりたかったら他でやる。

不幸せな人が叫ぶのが重要か?それとも、集まってないけど幸せな人が集まってなにかやるのが重要か?

優先順位の自明性が薄れている。

全体の優先順位の中で何が重要か、どう人を動員するのか?というのは、西田の考えているのは新しい大学教育ではできないんじゃないかという事?

西田>

SFC5年目だけど、特定の問題に関心を持っている人はたくさんいるけど、個別のアジェンダに関心を持っている人はいるけど、そこだけ。

つなぐ事を伊庭先生は考えているが、どうか?

伊庭>

環境問題を考えるんじゃなくて、太陽とともに遊ぶとか、そういう中にある。自然に親子で参加すると、自然にコミュニケーションを作れる。

祭をやってその上で考えて、というのがある。重要だ重要だと叫ぶだけじゃなくて、プラットフォームをどうするかというのがある。次の課題は、複数ある課題にどう取り組むか。全体性の問題の中で、どう取り組むか。

同じ事をやろうとしている人が結構いる。ジェンダーも環境も、背後に同じ方法があったり、分析方法が同じだったりとかあるかもしれない。それが大学には無い。

宮台>

全体性に関わる問題。お祭りが楽しくてそこに巻き込まれる。問題意識を考える

外国人参政権を求めるかというのを考えると、それがいいことなのか?本当に日本人化してしまって、権利要求して存在していた自分たちが消えてしまう。

格差がなくなったら、我々は解体してしまう。

新しい社会運動は、お祭りで面白いから参加するというのでもいいというのも

優先順位をつけずに、お互いを高め会えるんじゃないか?分けられた状況が非常に口惜しい。

伊庭>

共通性の部分に、話すと絶対よいことがあるから・・というプラットフォームを作るのが良さそう。

お祭りやイベントが増えてくると競争になって、勝ち残るのが広告代理店的なものになるかもしれない。一部の人がうまく見せるのが上がってくる。

宮台>

色んなお祭りをやればいいんじゃないか?とやると、むしろディバイトができる。島宇宙化。

お祭りを共有すると、在日とか日本人だとか消し飛ぶのがある。

また、参加できた人間とできなかった人間のディバイドもでる。島宇宙の壁を取り除くような機能に祭を設計していく必要がある。

問題意識を共有した上でいろんな人がやる。あとmiddleman。そういうセンスを磨くべき。

ある意味あがってきているかもしれない。フェミニズムから離れたのも、もしかしたらなんとなく直感して、排他的な所に自分を置いてしまうかもなとか考えて離れたのかも知れない。

トップもmiddleも、全体としてうまく機能するように組み合わせないとだめ。

伊庭>

キーワードとして重要なので、差異の回収がある。祭をその手段にするとかもある。

祭で集まる人もいるし、違った方法でやる人もあっていい。一部のメディアを握った人が、しかけをできるのが重要ではない。

■新しい教育

■質疑応答

日本の上もさがっているという事について。

上も下も上げる時、コミュニケーションの