3日ほど前だったか、サカサイに俺が前に読んだ知恵の樹の事を話してて、「オートポイエーシスって別に当たり前の事じゃね?」って事になったんだけど、それからなんとなく「何が凄かったのか」について考えてみた。
筑摩書房 (1997/12)
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オートポイエーシスってそうやったんかー!
知恵の樹のあとがきや前書きにも書いてある通り、マトゥラーナとヴァレラは当時クーデターなどで政情が不安定だったチリで、「<どのように知るのか>を知る研究」を行なった様だ。
国の中で色々な価値観を持った人同士が争い合ったのだろう。そんな情勢の中で、どうして自分の価値観を信じ込んでしまうのだろう?と考えた時、「<どのように知るのか>を知る研究」が始まった。
これは「<目の前の赤くて丸い物体は、リンゴだ>と何故信じるのか?」(”信憑構造”と呼ぶらしい)を研究した現象学者のフッサールと、社会的背景も目的もよく似ている。フッサールの頃のヨーロッパは、宗教戦争でプロテスタントとカトリックと色々が争ったり、地動説と天動説が争ったりしてみんなの価値観が滅茶苦茶になった後に、結局それら全てを否定する形で、科学技術がヨーロッパを制してしまった時代だった。
人々は「信憑構造を解明してほしい」というニーズを持っていた。
<どのように知るのか>、つまり現象学で言う信憑構造の研究は、「みんなは物事の”本質”の一側面を見て信じてるだけだ」という仮説から、心理学や認知科学などの具体的な学問に発展してきた。
それらの学問は、”心”というシステムとその外の環境の間の法則を探る様な感じだと思う。こういう条件だったら心はこうなる、感情はこうなる という事を探った。(多分)
それに対してマトゥラーナとヴァレラによるオートポイエーシスの研究は、生物学の視点で、細胞内の出来事から段々上がってきて神経や脳の分泌物質、個人、コミュニケーションそして社会レベルまで上がってくる。
凄いのはココだ。多分それまでは「心は神聖で複雑な物で、脳の中の汁とか薬とか簡単な物でどうこうなるもんじゃない」というのが常識だったはずだ。しかしオートポイエーシスや脳科学の研究によって、低レベルの栄養や分泌物のやりとりから神経へ…と上がっていくのが分かってしまった。人間の心のような複雑なものが、脳や刺激で練り上げられて現れてくる事になった。
今だから当たり前と言えるけど、これはかなりヤバイ側面も持つ研究だと思う。
「心が脳の分泌物で出来ている」という考えが一番ヤバイ所まで来ると、
価値観が違う人がいる→脳の分泌物質の状態が俺達と違うんだ→病気の人だから、直してあげなきゃ
となる。
鬱病とか精神病に薬を使うのはわかるけど、極端に言うと宗教戦争なんかだと一国まるごと精神薬や脳外科手術で「治療」とかにもなりかねない。
まあオートポイエーシスは俺が生まれる前に世に出た理論だから、「病気」か「個性」かは色々議論はされていると思うが。
目の前に、ちょっとマイノリティな行動を取る人が居るとして。
人権があるから勝手に治療しちゃ駄目、かもしれないし、病気だから治療の必要性に目を背けて居るんだよ、というのかもしれない。
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余談だが、俺はテクノロジーが思考の指向を作っていると思っているので、このギートステイトの「検索性同一性障害」
「自分の行動は検索エンジンが決定しているのだ」と考える新たな精神病なども発生している。
も結構気になってる。
去年から、「電車でふらっと降りたことのない駅に降りてしまうような」モノが必要だな(予定していない行動をしたくなるような)と思ってるんだけど、ソレ使う人はソレのアルゴリズムに縛られてるわけで。
でもデザイン次第では自分の視野を広げてくれてると思うかも知れないし?