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先日買った京都大学の菅原和孝教授のフィールドワークの本が、かなり良い。

厳密に、participating observation(参与観察)して、民族誌を作り上げている。ethnomethodology(エスノメソドロジー)してる。

奇しくも、丁度去年の今頃やっていた「お祭り」や「サッカースタジアム」のフィールドワークに近いことを、このエントリで書こうと思う。(書きながら考えるので何が出るかわからないが)

この本では、京都の街の行商人をフィールドワークしたり、エチオピアのビデオ小屋で麻薬?を噛みながらビデオみたり、と激しいFW(フィールドワーク)が行われてるだけど、俺は銭湯のFWが面白かった。「銭湯の背中流しっこのネットワーク」が見えてきて、色々と想像力を掻き立てられる。

銭湯はかなり特殊な空間で、都市の中の公共空間としても機能的に面白いし、あれだけ人がいるのにみんな裸という身体性も凄い。

みんな一緒にいるはずなのに個人っぽい、没場所的な今の都市において、大したイベントも無いのにみんなが集まる「銭湯」の様な場所で起こっている事を理解し、デザインに取り入れる事はユビキタスコンピューティングの新しい形としてヒントになる。(既に前から考えてるが…まず実験が結構難しい)

あと、銭湯の中に民族誌を持ち込めないという障害を乗り越えて、レポートを作ったのも凄い。



■フィールドワークからのデザイン

銭湯の中で人々が関わって特殊なコミュニケーションをしている事がわかったら、大抵この2つ方針でmediaをデザインできる。

1.銭湯の背中流しコミュニケーションの問題点を把握し、より面白くするメディアを作る

2.銭湯の背中流しコミュニケーションという「面白いモデル」を、他の場所に適応できるメディアを作ることで、都市の中に銭湯の様な特殊な公共空間をデザインする

俺的には2が好きだ。やっぱりリスペクトしたネタ元を超えてあげないと礼儀に反する。パクリに似た感じになってしまって嫌だ。

そもそもなんでHCIの領域でフィールドワークが大事かというと、s.h.log: 『ルーマン理論の可能性』①より

SocialComputingは、いわゆる社会的なものにユビキタスコンピューティングをシステムとして実装(埋め込む)事で、社会とそこに生きる人の経験をデザインする。

その方法として、例えばDourishの『Where the action is』という本には、「SocialComputingとTangibleComputingは実は同じものだ」と書いてあって、それを包括する現象学的設計論をubicompに提唱している。現象学的設計論では、エスノメソドロジーによるフィールドワークを行い、そこで起こっている事とデザイン対象の「経験」を自分に取り込む。これは、例えば相手にアンケートを取っても大抵の人は自分の「欲求」を正確に説明する事ができないし、どういうデザインがあればより良くなるか説明できるはずがないからだ。(決して、デザイン対象との対話を否定してるわけではない)

「経験」を取り込んだデザイナが、「どうやれば/何があれば」良くなるかを考え、デザインする。

ethnomethodologyの手法を取り入れて、経験(lived experience)を取り入れてデザイン対象と取り組むような事をphenomenological approachとか言う。(ぐぐるといっぱい出る

『フィールドワークへの挑戦』にも、ぐっとくる言葉が書いてあった

人類学のフィールドワークとは、<他者>について少しでもわかろうとする実践である。

人類学のフィールドワークとは、最初は謎めいた外見とともに立ち現れる「現地の人びと」の「生のかたち」をいきいきとわかることをめざす。

苦労して回収したアンケート用紙といくらにらめっこしても、「銭湯の楽しさとはなんですか?」といった質問に対する回答がじつにありきたりであることにあなたは失望する。

(中略)

あなたの身体が銭湯の快楽に内から触れることと、客観的な手法でデータをとることとは、けっして相対立する認識の方法ではない。逆にその二つがおたがいを支えあってはじめて、この社交空間の構造を明らかにすることができたのだ。

まさにparticipating observation。これでやらないと、絶対にそこで起こっているlived experienceを獲得する事はできない。人がどういう経験・活動をしているかという事と、その場所がどのように構成されているかを主観的に観察しながらも、客観的に観察して、両方獲得する。

この時の「見えてきた感」が、プログラミングとかとはまた別種の、うれしさがある。

そして、大抵の「現地の人」はけっこう工夫しているものなので、フィールドワークで得られたものは大抵面白い。しかし現地の人たちにとっては当たり前の事なので、インタビューしても教えてくれない

エスノメソドロジーで面白いことを獲得するスキルを身に着けると、ネタ元が無限になるので、面白いモノを無限に作れるようになる。

*****

ものづくりのためにエスノメソドロジを使うのは、本当に良いとこ取りだと思う。

参与観察 – Wikipediaでは、こう書かれている

特徴

・問題を発見しやすく、問題の特質を浮き彫りにさせやすい。

・対象の多次元的な把握に向いているため全体像を描きやすい。

・問題となる事象についての対象者の経験をその内面にさかのぼって理解し、対象者の行為を意味付け、問題の深層にアプローチできる。

・時間をさかのぼって調べられるので、対象の変化の過程をとらえることができる。

欠点

・事例が極めて少なくなるため、標本としての代表性が問題となる。

・定型的な方法が確立していないため、分析の成否が研究者・調査者個人の能力や性格に依拠する。

社会学やってる人って、モデリングしたり報告したり、批評したり警鐘を鳴らしたりしかできなくて、直接的な効果を与えることができなくてやりきれなくなる事があるんじゃないかと思う。

そもそも自分の言っていることが正しいかどうかがわからないし。

ものづくりのためにエスノメソドロジを使うなら、欠点の「事例が極めて少なくなるため~~」とかも問題にならない。作ったものが正常に動いて、ユーザに良い経験をもたらすかどうかが問題なので、自分のモデリングに自身が無かったら手当たりしだい作って試せば良い。

もしメディアが思ったとおり働かなかったら、

1.フィールドワークから考えて作ったコンセプトが間違っている(アイディアが足りてない)

2.現代のテクノロジーがコンセプトに追いついていない

3.自分の技術力・デザイン力が足りていない

のどれかになる。このバランスで「アウトプットできるもの」が決まってくると思う。ああつらい。

2だったら、マウスを発明したエンゲルバートみたいになれてむしろ凄いんだけどね